海に焦がれる碧い書斎

感想、考えたことの記録

「常識」がバールのようなもので殴られる感じ

 

タイトルが物騒ですが感想として取り上げる本もなかなか刺激が強いので……

 

ここ最近の私は「日常と架空(想像)の絶妙なバランスをとった作品」が好きだなぁと自覚している。例えば「おだやかじゃないアイドル活動を描いた女児作品」とか「サイコー超えてるアイドル活動を描いた男性アイドル作品」はどちらも架空の世界でありながら、実在する食べ物や今生きる人へのメッセージといった描き方が絶妙で割と現実味を感じるという手品を起こしている。

 

そんなええ感じの配分を含んだ本を読んだので紹介したい。

 

 

殺人出産 (講談社文庫)

殺人出産 (講談社文庫)

 

 

 

タイトルも表紙も「うっ」とくるが、キッカケはコンビニ人間を読んだことで「この人の他の作品も読みたいぞ!」というわりとシンプルなものである。

ちなみに内容はフツーに成人向けだしグロいのもある。全く予習も下調べもしなかったので、衝撃はなかなかだったが、表題作と短編全てを読み終えると、なんとなーく伝えたいことというか作者の掲げる意欲というか見方というか、なんかそんな感じがバールのようなものとなって読む人の頭をガツンとやるような本なのである。

詳しいことは以下に、短編ごとに話そう。

 

殺人出産

10人産んだら1人殺せるという「殺人出産」システムが定着し、これまでの「殺人は悪」という常識が変化する(した)世界を描くお話。

そのシステムが生まれた背景はできれば本を読んで確かめていただきたいが、個人的にはこのシステムが定着したことによりもう一つ生まれたある習慣(行動?)がなかなかバールのようなものだった。しかし、昔「火の鳥太陽編」を読んでいたお陰か過剰なオ゛ェ゛ーッにならずに済んだ。火の鳥はすごい。いろんなことに対応してるぞ。みんな火の鳥を読もう。

 

トリプル

話が逸れてしまった。

このお話には「3人でお付き合いをする=トリプル」というものが実在するかのような世界がある。

お付き合いというかカップルというか、そういうのは2人であることが多数とされていてこの話でも二人組のはあることにはあるが、まるで流行ファッションのようにトリプルが取り入れられているのが特徴である。

この現実世界でも3人以上というか複数人数でのお付き合いというか、2人以上に好意を持つという性質(ポリアモリー、だっけ)について聞いたことあるがコミックエッセイやらSNSでバズってる気配は今のところ無いので、マイノリティであることには違いない。

主人公はトリプルであることを謳歌しててそこにはまごうことなき甘酸っぱく青い春が描かれててフツーの恋愛物語やんけ!とつっこみたくなるが、隙なく入り込む「トリプルな」描写が読む人にとってどう感じるかによってそれは「バールのようなもの」になるんだなぁハッとした。

ちなみに私は読むたびに"なって"まして、読みきるのがちょっと大変だった。

 

 

 

清潔な結婚

実は1番「あぁそうですね、スッ(バールのようなものを避ける)」みたいな感じで入られたお話。

互いに恋愛感情、性的欲求は無くパートナーとして組み結婚した男女の話。パートナ同士にはない代わりに旦那側は別の人とアハーンしている描写がしっかりある。

ここらへんが多分バールのようなものになるんじゃなかろうか。私はこのシーンが結構大草原でした。あくまで私はね。

これは恋愛感情と性的欲求とパートナーとして組むことが必ずしもイコールとなるんですかねぇ……?と投げかけてるわけである。

私は「まぁならんじゃろ」とは思うものの世の主流がイコールになってる人が多数に感じるため、この話題を他者にするには時と場所を選ばざるをえないよなと感じている。

いつからイコールになったのか?というのを調べてみたいがいい感じの本や資料が浮かばない。ご存知の方いたらご連絡お待ちしております。

 

 

余命

ある事柄がまるでトレンドファッション(またか)のようになってるショートストーリー!私どっちかというとこの世界の住人になってみたいなぁと思ったよ。もしかしたら遠い未来、私のひ孫のひ孫のひ孫のひ孫くらいには実現するかもしれないね。(適当)

 

 

 

 

 

 

こう書いて気がついたがどの物語も全員女性が主人公である。作者の当時の年齢を考えると「だからこそ生まれる世界」がなんと無く感じられて、何故だか心地いい。

それでいてどの作品にもある「バールのようなものの正体は、我々が当たり前に思ってたもの(特にこの作品集だと生死、ジェンダーセクシャリティ方面についてかな)をストレートに疑う行為(not否定)なのだろう。実際、昔は◯◯だったらしいー描写がどの話にも必ずあって、とその◯◯がおそらく現世の多数派とされているものばかりだ。

たとえこの物語通りにいかないとしても、常識はバールのようなもので殴られて姿を変えるときがいつか必ず来るだろう。