海に焦がれる碧い書斎

感想、考えたことの記録

「ローガン」/ミュータントだってにんげんだもの

X-MEN映画シリーズで初のR指定を受けた「ローガン」を見ました。

X-MENは映画館での鑑賞・レンタル含めると、数少ない把握しているシリーズだし何か特別なものが込められていそうだなということで映画館へ足を運びました。

 

以下からはネタバレを多く含んでおります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜR指定

 

まず思ったのは「なぜR指定」にしたのかという疑問。

これまではそういう表現にしなかったし、同監督の過去作品「ウルヴァリンSAMURAI」も然り。同じX-MENシリーズでほかにR指定されたのは「デッドプール」だけです。

「ローガン」を見終えた今では、R指定は「常人には理解されがたい、主人公が抱える狂気と苦悩」を示すためのものだったのかなと自分の中で納得しています。

デッドプールは捕まったときに腕をなんたらかんたらして逃げるという、クレイジーな行動をとりましたが自分の能力と体が人間離れしてるとわかってるからできること。

ローガンも高い自己治癒能力と鋼の爪を持っているうえに加齢による老衰とアダマンチウムの蝕みという重なる苦しみが襲ってくるという、人間の理解の範疇を越えた領域に達しているわけです。

 

もちろん、これまでのX-MENシリーズでは様々な人物たちが悩みを抱えてきたわけです。その結果、加害する者や戦う者それから能力を手放した者と色んな人がいたわけですがあくまで、「ミュータントvsミュータント」とか「ミュータントvs人」を描くための背景のひとつ、な感じだったようにも思えます。登場人物が多いからでしょうか。しかし「ローガン」では登場するミュータントはぐっと減っています。チームを象徴するXの字スーツもなければ、セクシーな特殊衣装もない、それどころか今作で登場するミュータントたちの服装は地味です。普段着です。地味な白いシャツが血などで赤黒くなるシーンがバンバン来ます。それだけ逼迫してる世界なわけです。

ミュータントが少なくなりかなり追い詰められている中でローガンという一人の「人間」の「孤独さ」を描くためのR指定なのかもしれませんね。

 

ローラのここがすごい

パンフレットを購入したのですが、X-23もといローラを演じた少女は11歳の新人だそうで。今回が映画デビューだそうで……。ウソだろ!?とびっくりしました。あんなに複雑なキャラを!?と。将来が楽しみです……。

見ていて最初に引き込まれたのは、敵の隊員たちが居場所を突き止め廃工場の中に入っていくシーンです。

シリアルっぽいのを静かにもそもそと食べていたローラが、敵を一目見た瞬間目が変わったんですよね。なんというか、殺す気満々の獣というか冷たさというか。凄みってやつですかね。これはただものじゃない、というのを見事に表していたように思います。

 

前半はほとんど喋らず、能力をこれでも発揮してローガンが持つ「獣っぽさ」を見せて後半では知らない世界に興味を持ったり会話したりと「人っぽさ」も表してほんとローガンと親子みたいだなあとほっこりしてました。

 

 

 

 

ローガンだってにんげんだもの

 

主人公すごいですよね。ウルヴァリンすごいですよね。

ウルヴァリンといったら映画のX-MENシリーズを象徴する人物だと思うんですけど

こんなに「うわっ、弱い!」という印象を与えたのは「ローガン」だけなんじゃないでしょうか。

野生溢れる攻撃と肉体、力のこもった一撃と唸るような声、それからとりあえず裸か上半身裸でいることが多い「the一匹狼」だったのが。

お金のためにタクシー業をして字を読むときは老眼鏡を使ってるし介護もしているし、爪の伸びとアクションは鈍いし、必死の攻撃するとすぐフラフラになるし怪我の治りは遅い。

 

すごい!限りなく人間的だ!

と冒頭のシーンを見て思いました。

今回も独りで居ようともがくのだけれども、今までとの大きな違いは「自分と同じ能力を持った少女と出会ってしまったこと」なんですよね。

これまでは素敵な女性と出会って素敵な思い出作ったりしんどい夢を見たりしていたのですが、「ローガン」では幼い少女と出会うことで親のような気持ちを抱いたのでしょう。エデンを目指す間に必死にコミュニケーションをとる様はとても人間的。

ここではじめて、ローガンはある種の希望を見出そうとしていたのかもしれません。

 

 

 

そもそもミュータントだってにんげんだもの

 

 

 

それにしたってチャールズの劇的アフターがすごい。

家が残した大きな館のもと、立派なスーツ・シャツを着てミュータントやその卵を指導したり、弱い人を導く輝かしい姿があったじゃないですか。それが今や廃工場の倒れたタンクの中でローガンやキャリバンに介護(タンク内の角度が角度なので「セレブロ」を思い出す環境になっている。ニクいね。)されているという。

それだけでもミュータントの置かれた状況をはっきり示しているわけですが、

何よりチャールズが自分の能力をコントロールできていないというのが個人的にくるものがありました。

人間は老衰するとどうしたって、できていたことができなくなります。

チャールズの場合はこれまでほかのミュータントを助けたり、トップレベルの能力を駆使して戦い続けたわけですが、その面影はゼロ。車いすは普通にレバーを使っていますし、発作が起きてしまえばローガンですら必死に止めるレベルの「能力の暴走」が起きてしまう。発作は薬で抑えるしかない。ローラのことを語ったり、移動中に行ったあるシーンでは「プロフェッサーX」の姿が見えたりしたのですが……。

共に戦ってきたローガンはどんな気持ちでいたのでしょう……。

 

 

 

 

そこにあるのは希望か絶望か

 

 

25年間ミュータントが新しく生まれなかったなかで、(生まれなかった理由、なかなかえぐかったですね)今回も激しい戦いが繰り広げられたわけですが、印象的なのはミュータントの能力vs銃器、という構図がとても多かったこと。

それも武装兵だけでなくローガン達がお世話になった家の主人ですら、あの場面で銃をローガンに向けたときは、いろんな感情が引っ張り出されたし、なんというか現実世界に通じる何かを感じました。

映画X-MENシリーズ通して描かれているのは「人種差別」。一部の人間はミュータントを恐れ、一部のミュータントは人間に対し憎しみを抱くなどなど、様々なまなざしがあるわけですよ。今回の場合はローガン達がその家族の人たちと食事したり話す姿は「希望」のように思えたのに、武装兵たちが来たことですぐそれは「絶望」に変わってしまった。ひょんなことから互いの関係や向けられる視線が180度変わってしまうのは、哀しいけれど、どこにでもあることなんですよね。そして1度絶望となったものを変えようとするのは至難の業。たとえ成し遂げようとするにも多くの犠牲がつくでしょう。

 

 

これまでのシリーズが描いてきたのが「希望」とするなら

「ローガン」では徹底して「絶望」を描いたように思います。もちろん、ただ暴力的なシーンを描いただけではないすごい人間ドラマでしたし、必死に絶望の中もがいたからこそラストには「希望」が残されたわけです。でも希望がそのあとどうなったのかはわからない。こんな終わり方も「ローガン」だけですよねおそらく。

今まで描いてきた能力ファンタジー合戦を封じてローガンという人間を描くことを中心とした「ローガン」、暴力シーンはつらいところがありましたが、見に行けて本当に良かったと思います。